満月で気がついた、ずっと捨てたかったもの

こんばんは。

バリ島在住ふるせいくえです。

昨日今日とモヤモヤブログをアップしたのですが、

自分を見捨てないと決める

ボーダーからグラデーションに

夕方にそのモヤモヤの全貌が姿を現しました。

本日2つ目の更新です。

(今朝までの私。見えそうで見えない〜)

何を捨てたいのか。

捨てたいと思いながら諦めていたことはなんだったのか。

そんな問いを自分自身に投げかけたら、

驚きの答えが返ってきました。

「家族を捨てたい」

この言葉が出てきた時、自分でも驚愕しました。

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最初に「何を捨てたかったのか」と問うた時、

瞬時に浮かび上がってきたのは姉の顔。

娘とのぎこちなさも、

子どもたち2人の関係の中でイラつくことも、

人間関係で不快に思う時も、

すべての大元が姉との関係にあるということは、

ずいぶん前から気がついていたこと。

思い出しても嫌なことばかりあった姉との関係。

けれども結局は、

「唯一血の繋がった家族なんだから」

「姉妹仲良くしていなさい」

という親戚一同の呪いの言葉によって、

見捨ててはいけないと思っていたのです。

そう。

「家族だから」

という足枷をつけ続けていた。

(ダメ、ダメよ。そっち行っちゃダメ)

私の中にあるボーダー。

親として、子どもとして、

そんな役割を作り上げていたのも結局同じこと。

私が母親になろうとすると、

子どもたち二人は途端に逃げ出し反抗する。

それはもう面白いくらいに。

去年1年間の母娘離れ離れの生活もそうだし、

最近では母親から意図的に離れようとする娘。

友達のお家にお世話になることも多い。。。

彼女は、

母親から離れ、

多くのお母さんたちと通常よりも深く関わる中で、

母親というものを学び、

母親という存在から得るはずであろうものを得ているんじゃないのか。

端から誰も私に頑張って母親になれなんて、

一ミリも望んでなかったのか、と肩透かしを食らった気分だ。

(あれ?馬になろうと頑張っていたんだけど、、、)

私は長年、

家族がそれぞれの人生を歩めるように、

ゆっくりと羽を休め、

英気を養い、

また飛び立つための場所、

そんな家にしたい。

そう願い続けてきた。

その反面、

それを私が作るの?

というと、大きな違和感を抱いていた。

私は家を守り、家族のために場所を提供するだけなんて嫌だ。

そんなもの微塵も望んでないし、楽しくない。

そう、

私たちは仲間。

それぞれの人生を、

全力で楽しんでいくと決めた仲間。

時に羽を休めて、大笑いして、

愚痴を言い合い、慰め合いながら、

またそれぞれの道を歩んでいく仲間。

家族という定義ではなく、

家族という範囲だけではなく、

私は多くの大切な人たちと、

「自分の人生」という道を全力で歩む仲間と、

共に生きていきたいんだ。

(上下関係じゃなくて、皆同じ目線で)

仲間とは、

常に一緒に進んでいくものだけではない。

異なる道を進もうとも、

ひとりぼっちだったとしても、

心の中にはその存在があり、

決して一人なんかじゃない。

私の思う仲間はそういうもの。

家族だから、

親だから、

子供だから、

血が繋がってるから、

そんな理由が、

自分の人生を歩むことの足枷になっちゃいけない。

そんな人生を私の心は望んでいない。

もちろん私が心から大切に思う人にも、

そんな生き方を望んでなんかいない。

責任や義務、家族のために、

自分の人生を諦めるんじゃなくて。

利己主義、無関心で、

自分の人生を進んで行くでもなくて。

事実上の家族として今世で出会ったんだから、

夫婦だからこそ、

親子だからこそ、

他人とは違う繋がり方があるだけ。

他人とは違う支え合い方があるだけ。

仲間、という関係は変わらない。

(3歳児には3歳児の進みたい道がある)

「家族を捨てたい」

それは私の中にある最大級のタブー。

両親が幼い頃に他界したのに、

命の儚さを知っているのに、

まるで軽んじてるかのようで。

でも、

私の中の「家族を捨てる」とは、

「あんたは大丈夫だよ」という全信頼。

その思いがあって初めて、

家族という、

家族だからという、

縛りを解くことができる。

つまり私の「家族を捨てる」とは、

最大級の信頼であり、

最大級の愛の形。

「家族だから」という足枷じゃなく、

「家族だから」という深い助け合い。

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