こんにちは。
バリ島在住たいわ士、ふるせいくえです。
日本から一歩外に出ると、
日本人の私は常に「外国人」になる。
はて、何をもって「外国人」とするのか。
日本にいたとすれば、
日本人とそれ以外という違いだけれど。
私から見れば、
インドネシア人も外国人で、
アメリカ人も外国人。
でもインドネシア人から見れば、
私も他の観光客も外国人。
そう思うと、
「外国人」って一体何なんだろう、
その定義は実は同じようであって、
その人それぞれで異なるんだな。
もしかしたら既に、
「外国人」という概念自体を、
こんなにも握りしめているのは、
ごく一部の人達だけかもしれない、
なんてことも考える。
実際に、ヨーロッパなどの地続きの国々や、
アメリカのようなかつて多くの移民がやってきた国は、
生まれと育ちが違う国だったり、
両親の国籍が異なるのは、
思った以上に多かったりするから。
日本という結局はベースは同じ場所ではなく、
全てが異なる海外に出てみると、
そして異なる生き方をしてきた多くの人の話を聞けば聞くほどに、
「正解」なんてどこにもないと思い知らされる。
そして、
肌の色も瞳の色も髪の色も違っても、
考え方も生き方も好きなものも違っても、
結局はみんな「同じ」なんだと気がつく。
そんなそれぞれ違う人たちと、
そして結局は同じな人たちと、
同じ空気を吸い、同じ景色を眺め、
同じ空間で、近くや遠くで関わりあって、
こうやって生きているというのは、
とても不思議なことでもあるし、
とても豊かなことだなぁと思う。
つい足りないところを人と比較してしまう癖は、
そう簡単には抜けない。
でも目の前に素敵な人が現れたら、
自分もこうなりたいなって思う人が現れたら、
真似してみよう、出来そうなことを取り入れようと、
そう純粋に思えて行動できる自分がそこにいる。
失敗したくないという思いは、
正解があるという前提で。
でもその正解は、
実は無数にあって、誰にもわからない。
目の前のその人の生き方や行動が、
「正解かどうか」なんて、
実は誰にもわからないことで。
だから羨むことも、
自分と比べて落ち込むことも、
必要ないことなのかもね。
答えを探してきたのに、
答えがないという答えを受け入れるのは、
やっぱり勇気がいる事だけど、
それでもやっぱりそうなんだから仕方ない。
つまりは、
全て自分で決めていい
っていうことなんだ。
自分とは違うと思う相手は結局自分と同じで、
正しいと思っている答えは無数にある。
そんな混沌の中で生きていくことの豊かさ。