こんにちは。
バリ島在住たいわ士、ふるせいくえです。
Facebookで過去の投稿が上がってきました。
2年前に書いたこの記事。
久しぶりに読み返してみて、
この2年間で私は随分と変化したんだなーと感じています。
今日はそんな私の母親意識についてのお話。
私がこの2年間でハッキリとわかったのは、
「子育てはとーっても苦手で嫌い」ってこと。
ここでいう子育てっていうのは、
きっと人それぞれ定義が異なるんだろうな、って思うんですね。
特に私の考える子育てって、
しずかちゃんのお母さんみたいに、
優しくって、かいがいしくお世話して、暴言吐かず、
なーんかホンワカ包み込むみたいな雰囲気を醸し出す存在でいる、
っていうことなんですね。
まぁジャイアンのお母さんみたいに、
大きな愛を持って叱る!有無言わせねえ!
でも子どもの尻拭いはしっかりするよ!
みたいなのもいいなーとも思いますね。
幼児期に母を亡くした私にとって、
母親像というものは、確固としたモデルケースがいないのです。
だからどこか、
世間一般の普通や常識に影響されているところがありますが。
どっちにせよ、
子どもの近くにいて、距離感を保ちながら、
導き、見守り、励まし、教え、受け止め、成長をサポートする。
まぁ、そんなところでしょうか。
(娘が年長の時のお弁当。我が家のキャラ弁は本人の顔。
母の真似をして自分で作ってみた顔弁)
んで。
私はそれが、すごく、スゴーーーーク、辛い。
人間的に未熟と言われればそれまででしょうけども。
でも、苦手で、やろうとすると辛いのは本当だから仕方がない。
でもね、自分の子どもが嫌いなわけじゃないんです。
可愛いんですよー。面倒臭いけど。
大好きなんですよー。面倒臭いけど。
そう、つまり、両方あるんです。
可愛い、でも可愛くない。
大好き、でも嫌い。
愛おしい、でも面倒臭い。
癒される、でも疲れる。
幸せ、でも苦しい。
どっちも存在します。
子育てしていたら、そりゃどっちもあります。
で、そのネガティブな方の感情を、
「あってもいい」って認めることにしました。
(小学校4年生になっても顔弁のリクエスト)
そして、
「私は子ども達に何を望んでいるのかな?」
「私は子ども達にどう生きていってほしいと願っているのかな?」
ってことを改めて考え直したんです。
すると出てきた答えはシンプルでした。
「HAPPYな人になって欲しい」
「魂が輝く生き方をして欲しい」
学力は正直どうでもよくて。
海外生活をすると、日本語力をキープすることや、
第二言語をどこまで習得するのかなど、
教育について気にすることって増えるんですね。
でもね、
私、本当にどうでもいいんです。
漢字が書けなくても別にいいと思ってるし、
ネイティブみたいに話せなくても言いたいことが伝わるならいいと思ってる。
そして本人がHAPPYであれば、人生どうにでもなる。
そのために必要なことって、
「その子の魂が安心して光り輝ける場所」と、
「HAPPYな人たちと共に過ごす」こと。
それを叶えるためなら、
私は母親としてなんでもしてやる。
そう思える。
(息子への初顔弁。帰宅後「お弁当のお顔どうだった?」と聞いたら
「顔なんてなかった」との返事。。。えぇぇぇぇぇぇ!!!!!)
家の中であれこれ世話するのは苦手だけれど、
選択肢を目の前に並べることと、
本人の選択を尊重するために必要なサポートは、
惜しげも無くできる自信がある。
これが出来ないからここには行けない。
あれがないからあそこは選べない。
これしかないからこれしか選択肢がない。
。。。
そんな状況を許したくない。
私の努力で選択肢が広がるならば、
送迎だろうが、弁当作りだろうが、早起きだろうが、
引っ越しだって、働くことだって苦にならないんだ。
でもそれって、父親の役割なんじゃないの?
そう長年思い続けてきた。
「父親とは」「母親とは」
そんなものに長いこと囚われて不自由になっていたらしい。
父親とか母親とかもうどうでもいい。
無意識に何者かになろうとしていた自分を終わりにすることにした。
私の愛情と、私の愛し方と、私の表現方法は、
どう頑張ったって変わらないんだもん。
そもそも、
幼い頃に両親とも亡くして、
親っていう存在のことを人よりも知らないんだから、
「父親とは」「母親とは」なんて分かりっこないしねw
私は私だ。
それが私の母親としての在り方。