こんにちは。
バリ島在住たいわ士ふるせいくえです。
夫を日本に残したまま子ども2人を連れてバリに行くと決めた時、
「旦那さんよく認めてくれたね」
「理解のある旦那さんだね」
と周りからよく言われました。
その後、娘だけ日本に戻り父子生活となってからは、
「旦那さんすごいね!」
「ご飯も作れるの!」
「・・・・・!!!」
と天然記念物を見るかのように驚かれていました。
そうですよねー。
私もたいがいですけれども、笑
そんな私と一緒に居る旦那さんはかなりスゴイです。
お友達などは結構前向きなリアクションなんですけど、
やっぱりこれが親族となると、
愛情が大きい分、心配な気持ちが増して、
どうしても後ろ向きなリアクションになることも多いです。
その時によく出てくるフレーズ。
「旦那さんに感謝しないとね」
私はこの一言が出てくるたびに、
心の中にもやもやっとしたものが湧いてくるのを感じていました。
確かに現実を見れば、
旦那さんが賛同してくれたから、協力してくれたから、
こういう現実を進んでいけるのだけれども。
そんなことはわかってるんだけれども。
このモヤモヤは一体なんなのか。
天然記念物並みの破天荒な私に付き合ってくれてる夫は、
同じく天然記念物並みに特別な存在なんだから、
その存在を当たり前だと思うなよ!ってことなのか。
どこかで当たり前だと思ってる私は、
すごく無礼で人として未熟なのか。
そうやって自分を責めてる時もありました。
けれどもふっと感じたんです。
「旦那さんに感謝しないとね」
の言葉の裏側に、
「あなたのやってることは他の人に迷惑をかけてるのよ」
という意味があると。
この言葉、思い返せば結構昔から言われていました。
結婚してからはいつもいつも言われていた記憶。
2人姉妹で姉は道外に嫁ぎ、
両親の墓守を長男であるにもかかわらず引き受けてくれた夫。
「感謝しないとね」
自宅出産で両親にも頼ることができない中、
家のことや上の子の面倒をすべて引き受けてくれた夫。
「感謝しないとね」
娘の夏休みに子どもたちと帰省する間、
札幌の家に残り仕事をする夫。
「感謝しないとね」
この言葉を言われるたびに、
「お前のやっていることは自分勝手だ」
「お前のわがままに旦那は付き合ってくれてるんだ」
「だからもっとそのことを自覚しろ」
って言われてる気分がして、
そもそも感謝を強要されること自体がオカシイし、
モヤモヤモヤモヤしていたと気がついたのです。
日常の中でも、
「食べ物は元は生きていた命なんだから感謝して食べよう」
というフレーズを聞くことがあります。
命の尊さを学ぶために野菜を育ててみたり、
親子料理教室に参加してみたり、
中には動物を食べない人もいます。
私はそこでも同じように感じるのです。
私は、食事に感謝をするというのは、
「いただきます!」
「おいしいね〜」
「これ好き!食べたい!」
「またこれ作って!」
「ごちそうさまでした」
なんだと思うのです。
「この一粒を作るのにお百姓さんが、、、」
「この命にはたくさんの命が犠牲になって、、、」
なんて、いちいち悲壮感漂う話なんて思い浮かばなくていい。
それが植物だろうが、魚介類だろうが、動物の肉だろうが、
全て当たり前に命で、
全て当たり前に私の命に繋がってて。
だから、
「いただきまーす!」
「やったー!今日はとんかつだー!」
「おいしいね〜最高〜」
「ごちそうさまでした!」
って食べることが、
何よりもの感謝ではないのかな。
結局、
「感謝しないとね」という言葉が出てくるのは、
その人自身がそう思ってること。
自分の行動に何かしらの後ろめたさがあったり、
やりたいことを他人のために自分の意思だけで我慢してる人。
当たり前に感謝の気持ちを抱く人は、
「ありがたいね」「幸せだね」
そんなフレーズが出てくるんじゃないかな。
感謝って、結局溢れ出てくるものなんだと思う。