バリから一時帰国すると、
必ず会う人会う人訊かれることがあります。
「バリで何してるの?」
この問いかけの真意は、
「なんのお仕事をしてるの?」
「どんな役割を果たしてるの?」
「どうしてバリに行ったの?」
だと思うのです。
つまり、
向こうで新たに仕事を始めたのか?
旦那さんのお仕事の都合で移住したのか?
どんな理由があってバリに暮らしてるのか?
ってことなんだろうなぁ、、、
と思いながら、
まぁこれらにはどれ一つとも該当せずに向こうに行きましたから、
いつも答えに詰まるわけです。
で、最初の質問「バリで何してるの?」と聞かれた時はいつも、
「ボーッとしてる」
と答えるわけですが。笑
この前、娘がいるところで同じ質問を訊かれまして。
私が「う〜ん、、、」と悩んでいたところ、
隣にいる娘からこんな言葉が出てきました。
「暮らしてるの」
(ごもっともーーーー!!!)
そうなんですよね。
私、暮らしてるんです。
何するために行ったんじゃなくて、
暮らすために行って、ただ暮らしてるんですよ。笑
この「行動には理由がないといけない」という当たり前の思い込み。
最初の質問も「バリに行った理由がある」という前提があるからこそ、
出てくる質問なのかなぁって思うんです。
***
例えば将来の夢だって、
その夢を持つ「理由」を必ず聞かれるでしょう?
「どうしてパティシエになったの?」とか、
「どうしてお医者さんになりたいと思うの?」とか。
世の中の全てに理由があるわけじゃないと思うんですよ。
特に人の心なんてのはね。
でもハッキリとした理由がないと、
「考えが甘い!」とか、
「自己中心的でわがままだ!」とか、
そういうレッテルを無条件に貼られてしまう。
だから私たちは自分の夢を叶えるために、
一生懸命「理由」を創り上げていく。
「理由」がないと、それが理由で夢を潰されてしまうから。
そしていつしか、
自分で創り上げた「理由」が大きな足かせになり、
純粋な「夢を叶える楽しさ」や「夢が叶った嬉しさ」は隠れ、
「理由」を遂行するという「義務感」に縛られ始めるんじゃないか。
「夢」が「理由」に侵略されて、
時に「理由」ありきで「夢」を決めることすらある。
「お母さんの笑顔が見たいから」という理由で。
日本にいたら当たり前すぎて信じて疑わないことが、
日本を離れ、再び帰ってくると、
大きな違和感になって目の前に現れます。
子どもが何かをしたいと思う時、
そこには「理由」など一切ないんじゃないかと思うのです。
いつも水たまりに入りたがるのは、
「ただ、入りたいから」だし、
このおもちゃで遊びたいのは、
「ただ、このおもちゃで遊びたいから」だけで。
「水に入った時、足に水圧を感じることや、
自分の行動と反応としての水しぶきを見ることに、
今までにない高揚感を感じる」
なんて3歳児がいいますか?笑
「見た目から感じる質感とフォルムに惹きつけられ、
それを肌で実際に体感したいのと、
ボタンを押した時にどんな反応が起きるのか、
目では見えない内側で起きている電気の不思議に取りつかれたから」
って説明したら怖いでしょう?笑
理由はないんです。
でも体験することで得ることは沢山ある。
得るものがわからないからこそ惹きつけられるし、
得るものがわからないからこそ「やってみたい」。
だから理由はなくて、
強いて言えば「やりたいから」でしかないのです。
誰かに認めてもらうための「理由付け」はもうやめよう。
甘いケーキを食べるのに、正当化する理由なんていらないよ。
「食べたいから食べる」でいいんだよ。
お家でだらだらするのに理由なんていらない。
「だらだらしたいから」でいい。
まずは理由がないといけないと、
自分を責めることを終わりにしてみよう。
幸せでいるのに理由もいらないし、
穏やかでいるのに理由もいらない。