生きる、ということへの覚悟。いのちを頂くお話。

私は娘のアトピーから食に対する考えを新たに考えるようになり、

マクロビオティックを習ってみたり、

ヴィーガンに傾倒してみたり、

砂糖や乳製品で寝込んでしまうような時期を経て、

今はお肉もお魚も乳製品も小麦粉もお砂糖も、

自分の体と相談をしながら頂いています。

お肉が好きで毎日食べる人も、

お魚は食べませんという人も、

加工肉は食べませんという人も、

ベジタリアンという人も、

その人が心地よいものを選べばそれでいい、というのが私の考えです。

バリに来て、

命をいただくことへの想いが大きく変化したので、

今日はそんな話をしたいな、と思います。

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私は日本にいる時、

鶏肉と鶏が同じ事は理解していたけれど、

鶏肉=食べ物、鶏=たまごを産む動物

みたいな意識があったんだと気がつきました。

同じように、

牛肉=食べ物、牛=牛乳を出す動物

豚肉=食べ物、豚=生き物

とにかく、

このまな板の上にあるこのお肉は、

元は動物だったと(頭では)理解してるけど、

(感覚としては)すでに食べ物という認識だった、ということ。

なぜそれに気がついたかというと、

バリでは鶏肉料理は「〜アヤム」(鶏肉の〜料理)と表現し、

そこら辺を歩いてる鶏のことも「アヤム」と呼ぶのです。

お魚料理は「〜イカン」(魚の〜料理)、

そして店先の池で泳いでる鯉も「イカン」と呼ぶ。

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食べ物も、生き物も、同じ呼び方。同じ認識。

最初、すごくすごく違和感を感じていました。

と同時に「目の前を歩くこの鶏を私たちは食べているんだ」

という当たり前のことが体のずっと奥深くにズシンときたのです。

先日、ガルンガンという大切なセレモニーの前に、

近くの空き地から豚の鳴き声がずーっと響いていました。

聴くと「バビ」(豚)をシメていると教えてくれました。

こちらでは、神様へのお供えとして、

こうやって生きている動物をシメてお供えすることもあるらしいのです。

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(ガルンガン前にお家に突如現れた鶏4羽。

この後どうなったのかはわかりませんが、

きっと私がいない時にシメられてお供えになったのだと思います)

日本では屠殺は一般家庭では出来ないことになっています。

全て屠殺場で食肉に加工されて出荷するという決まりがある。

だから私たちはいのちを頂くというその現場、エネルギーを感じることはない。

でも、ここで動物たちと共存し、

時にいのちをいただく時、

「可哀想」とか「動物だって生きている」とか、

そんな綺麗事では済まない、

人間の覚悟を感じるのです。

それこそが、

「生きる」

という覚悟。

人間は動物より偉いのかとか、

喋れない動物は弱いとか、

そんな言い分が薄っぺらく感じる。

動物も生きている。

そして人間も生きている。

ただそれだけ。

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良いとか悪いとか、

正しいとか間違ってるとか、

とかく日本ではそうやって判断して、

悪いもの、間違っているものを排除する傾向があると感じます。

けれど、世の中には良いとか悪いとかで判断できないもの、

そんな上っ面な論争じゃ説明のつかないような、

深いことっていっぱいあるんじゃないかと思うのです。

お肉を食べたって良いし、

べジタリアンだって良い。

自分が良ければそれで良いのです。

ツイッターでたまたま見つけた言葉で、

「僕は豚を食べないけど、君が食べるのは君の自由だから良いんじゃない?」

とイスラム教を信仰してる外国人のお友達が言ったというのを見ました。

私たちは皆違う。

それが当たり前なんだ。

違うからと非難されたりコントロールされるのは私は嫌だ。

皆違うけれど、皆同じように命を持った人間じゃないか。

私は美味しくお肉を頂く。

お魚だって捌いて食べる。

お野菜だって、牛乳だって、美味しい料理に変える。

「感謝をしながら」なんてキレイ事なんて言わない。

食べたいから食べる。美味しいから食べる。

頭でご飯を食べてるんじゃなくて、

心が喜ぶものを食べようじゃないか。

そこに「覚悟」があるんだよ。

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